2012年1月28日土曜日

『孝女白菊の歌』の音樂を解析すれば To analyze the "Song of the Shiragiku filial daughter"


This is music made ​​with "YAMAHA QY100" of SEQUENCERS.
これはSEQUENCERSの「YAMAHA QY100」で作った音楽です。





『孝女白菊の歌』の音樂を解析すれば


To analyze the "Song of the Shiragiku filial daughter"






『孝女白菊の歌』全曲






 行きがかり上、落合直文(1861-1903)の、

 『孝女白菊の歌』

 について述べる事になつて、その文章にその音樂もBGMとして利用するのに、

 『YAMAHA QY100

 で打ち込んで見た。
 調べてみると、落合直文はこれ以外にも、筆者も知つてゐる、

 『青葉繁れる櫻井の(櫻井の訣別)

 といふ音樂の作詞もあり、これは明治二十三年に發表されたとある。


この『孝女白菊の歌』の音樂の作曲者は未詳(みしやう)で、これは當時(たうじ)の小學校で習ふ愛唱歌の殆(ほとん)どがさうであつたやうで、後年、それを詳(つまび)らかにしようとする動きもあつたやうだが、資料が不足してゐて、未(いま)だに作曲者の判らない曲も隨分(ずいぶん)あるさうだ。


この曲の原曲は、

『日本の愛唱歌1(明治・大正)・野ばら社』

に掲載されたものを手がかりにしたのだが、その樂譜には單旋律しかないので、それをそのまま發表したのでは、あまりにも素朴で長く聞いてゐる譯にも行かないだらうと考へ、編曲して發表する事にした。


さて、この曲は伴奏を附加してゐるのだが、主題に寄り添うやうに次々と變化(へんくわ)して行く伴奏をつける、所謂(いはゆる)

 「パツサカリア(Passacaglia)



 とでも呼べる形式で、これは變奏曲(ヴアリエエシヨン)の一種であつて、普通の變奏曲は主題(テエマ)が樣々に變化して演奏されるのに比べて、主題は變化をせずに助奏(オブリガアド)が姿を變へながら主題と絡(から)んで行く形式で、作曲家のブクステフウデ(1637-1707)や有名なところではバツハ(1685-1750)等がゐるが、それ以降ブラアムス(1833-1897)が出現して『交響曲第4番』の四樂章が發表されるまで(あるいは筆者が知らないだけでそれまでに他の作曲者の作品があるのかも知れないが)、新作としては歴史の中で埋れてゐた事になる。
 嚴密に言へば違ふかも知れないが、伴奏が樂器によつてその數が次第に膨れ上がつて行くといふ意味では、ラベル(1875-1937)の、

 「ボレロ(Bolero)

 と同じだと思へば判り易いだらう。


 通常の變奏曲は、先程も述べたやうに主題が變化して行く樣を樂しむのだが、歌詞に影響を受けない器樂曲では、純粹(じゆんすい)に音の変化を樂しむ事が出來、それは例へばモオツアルト(1756-1791)の、

 『キラキラ星による12の變奏曲 K.265



 を聞けば解る事で、この曲は『ABCの歌』とも言はれてゐるのだが、ケツヘル(1800-1877)の作品目録には、

 『ああ、お母さん、あなたに申しませう (Ah, vous dirai-je, Maman) による12の變奏曲 K.265

 となつてゐる。


このモオツアルトの曲を聽く時、「ABC」だとか「キラキラ」光つてゐる「星」を思ひ浮べて歌詞に依存されるやうな鑑賞をする必要はなく、それは飽()くまでも予備知識として辨(わきま)へておくだけでよくて、眼目(がんもく)は主題(テエマ)が如何(いか)に變化をして行くかを味はふのが目的の音樂である。


「變奏(へんそう)」とは「變装(へんさう)」とも通じてゐて、背廣(スウツ)を著()たり、和服を著たり、女裝してゐても中身が同一人物である事が判れば、その變装振りを感心したり、騙されたと感服する事も出來るのであるが、變装した人物を知つてゐなければ、變装もなにもあつたものではなく、變つた服を著たそれぞれの人物がゐるだけといふ事になつてしまふ譯で、音樂の場合でも主題を憶えてゐなければ、その變奏を樂しむ事は出來ないのはいふまでもないだらう。
 從つて、主題のある事が理解出來なければ、『キラキラ星』の12の變奏といふ事を解析する喜びを味はふ事も出來ないから、約9分といふ長い曲があるだけといふ事になつてしまふ。
 幸ひ、『キラキラ星』といふ曲が有名で覺え易いから、その變化に氣がつくのも簡單だが、ちよいと難しかつたり聞き慣れない曲だと厄介な事になる譯である。


 筆者は變奏曲をよく料理に例へて説明するのだが、それを述べれば、

 「最初に玉葱を見せられて、それをオニオンスライスとして皿に盛つて出され、次に味噌汁を呑むと具が玉葱で、そのあと天婦羅を食べるとコロモの中から玉葱が出て來て、さてそれから野菜炒めを頬張ると玉葱が入つてゐて、さういつた玉葱を具材とした食事を次々とだされて滿腹になつてから、店主(マスタア)御馳走さん、美味しかつたですと言つてお勘定を拂ふのだが、この時、主題(テエマ)が玉葱だと解つてゐなければ、單に空腹を滿たしただけだが、それが玉葱の變奏曲であつたと解つてゐれば、肉體的滿足と智的満腹感の二つのものが得られたといふ事になるのである」

 かういふのを變奏曲といふのだが、ジヤズ(Jazz)はこの形式を利用して即興で演奏するのを愉しむ音樂であるといへるだらう。
 ただ、基本的には最初に提示され主題を最後にもう一度提示する事で、この曲が終りますよと觀客に合圖(あひづ)をするのだが、それは玉葱料理の時に、食事の最後に玉葱を提示すれば同じ事になると思はれるのである。


 更に言へば、藝術とは變化を樂しむもので、提示されたものが如何に變化して行くか、さうして變化がないと思はれるものにも、實(じつ)はそれまでに發表された作品を蹈まへて、それを變化させている譯であり、例へば畫布(キヤンバス)の真ん中に縦に線を引いて安定感を示す事で、それを斜めにしたり、中央から外して不安感を表現する事も可能になるのであり、またある美しい景色に對して、穢(きたな)いゴミの中に美を見出すといふ新たな美を構築する事も出來るのである。
 それは芥川龍之介が解剖された人體(じんたい)の内部を見て、美しいと言つたやうなものであらうか。
 食事にしても、主食であるご飯に、澤庵や味噌汁、ハンバアグや焼き魚といつたオカズとの對比による變化を愉しんだり、カレエや丼(どんぶり)などにして食したりするのである。


さて、音樂は器樂曲と聲樂曲とに分類出來ると思はれるが、それを蹈()まへて筆者は音樂を三つに分類して考へれば解りやすいと思つてゐる。
 
一つは「A」「B」といふ變化によるもの。
二つは「A」「A´」「A´´」といふやうな變奏曲。
 三つは歌詞のある聲樂(せいがく)曲。


 以上のやうに大別したとして、この曲は三つめの「聲樂曲」に當(あた)る譯だが、聲樂と雖(いへども)も形式はあり、この曲は所謂(いはゆる)一部形式で、四小節を一樂節として全部で八小節の二樂節を「A」とする音樂であり、あと「B」の部分に當(あた)る二樂節を足せば全部で四樂節(十六小節)の二部形式となるのだが、この曲は先に述べたやうに童謠に多く見られる一部形式である。


しかも聲樂曲としては「有節歌曲」といふ事になり、それは歌詞が一番、二番と續いて行つても一つの旋律で歌はれる形式の事で、多くは三番まであるのが一般的で、二番までだつたり、四番までだつたり、稀(まれ)には一番しかなく、一番が終つたあと、曲の途中まで演奏して寂(さび)の部分から歌つて終へるといふものもあつたり、さうかと思ふと、「鉄道唱歌」のやうに何十番もあつたりする。
この曲の歌詞は數へてみたら二百七十六行もあつて、三行で一節となるので九十二番まである事になる。
 

 それに對して「通作歌曲」といふものがあり、これは詩が二節、即ち二番以上からなる詩の各節に異なる旋律をつけた曲といふ事になるのだが、バツハの頃の「ダ・カアポ・アリア」などもこの類(たぐひ)、代表的なところでは、


モオツアルトの、

『すみれ』









や、シユウベルトの、

『菩提樹』



などが揚げられるのだが、その意味では「有節歌曲」は歌詞が變奏()してゐて、「通作歌曲」は曲が變奏してゐるといふ事になる譯である。
 以上で、音樂の基礎知識的な解説は終る事として、

 『孝女白菊の歌』

 の音樂の分析に入りたいと思ふ。


§


1、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(主題・Theme)



 第一曲目の解説に入れば、葦笛(パンフルウト・Pamphlet)による「四分の二拍子」の「二樂節(八小節)」の獨奏で、哀調を帶びた民謡風の主題(テエマ)が提示されるが、民謡風といふのは「シ(B)」から始まつて「ミ(E)」で終るといふ事でも、その事が證明されるものと思はれる。
といふのも、ハ長調のばあいだと「ド(C)(E)(G)」のいづれかから始まつて、「ド(C)」で曲を終へるのが西洋音樂から見れば一般的で、例外もあるが、多くは五音階(ペンタトニツク)の民謡を引用した場合で、モオツアルトの「交響曲第40番」のやうに「フア(F)」から始まる曲なんかは極めて珍しいものだと云へるだらう。
因みに、「ド(C)」で終れば長調(メジヤア・明るい曲)といふ事になり、「ラ(A)・ド(C)・ミ(E)」のいづれかで始まつて「ラ(A)」で終るのが短調(マイナア・悲しい曲)といふ事になる。


2、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏1)



 第二曲目は、壜(ボトル・Bottle)で主題が演奏され、葦笛(パンフルウト)が輕くそれに彩りを添える程度で、大きな變化はない。


3、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏2)



 第三曲目は、二曲目の伴奏の音を伸ばしただけで、これも大きな變化は見られない。


4、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏3)



 第四曲目は、初めて對旋律(たいせんりつ)とも呼べる序奏(オブリガアド)が表れて、單なる伴奏ではない獨立した旋律のある音樂になつて、多聲音樂(ポリフオニイ)の樣相を呈してゐる。
 近年の音樂ではボロデイン(1833-1887)の『中央アジアの高原にて』が好例と言へよう。


5、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(間奏1)



  第五曲目は、その對旋律を利用して間奏の音樂として絃樂器で演奏されるが、それにまた別の旋律が絡んで一曲となつてゐる。


6、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏4)



 第六曲目は、合唱(コオラス)が主旋律を歌ひ、絃樂器が足取りを表現するかのやうに音を刻み、それを保持するやうにボトルの音が支へてゐる。


7、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏5)



 第七曲目は、絃樂器が主旋律を奏(かな)で、合唱が下降音で月日の經過(けいくわ)を感じさせるやうに、陽の光や木葉や雨や雪などの降り注ぐものの表現をしてゐる。


8、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏6)






 第八曲目は、合唱の主旋律に葦笛が淋しさうな音で纏(まと)はりつき、まるで山奧にゐるかのやうな孤獨感を深める。


9、YAMAHA QY100
落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏7)




 第九曲目は、夜も更けた星空の下、孝女白菊は行く當()てもなく途方に暮れてゐる。
 しかし、歩みは止めない。


10、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(間奏2)



 第十曲目は、葦笛とボトル、さうして絃樂器による間奏。


11、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏8)




 第十一曲目は、恰(あたか)も、鈴を鳴らして巡禮するかのやうに旅を續ける、可憐な白菊の足取りを描寫してゐる心算(つもり)なんだが、果して……。


12、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏9)




第十二曲目は、行方も定めぬ父や兄を探す旅はいよいよ闇を深め、餘(あま)りにも広大無邊の世界にゐる白菊の俯瞰(ふかん)的な音樂となつてゐる。


13、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏10)




 第十三曲目は、カノンあるいは遁走曲(フウガ)で書かれ、孝女白菊が父や兄弟を探してその名を叫んでも、谺(こだま)しか歸つて來ない寂しさを表現してゐる。
これを應用して、佐藤春夫(1892-1964)の『夏の我が戀』といふ詩に作曲をした時、前奏で角笛(ホルン)に應答して同じ樂器の山彦が返つてくるのだが、後奏では都會へ出て行つてしまつた戀しい女性が歸らないので、角笛が鳴つても谺は返つて來ず、寂しく曲を終へるのである。
これも近々、發表したいと思ふ。
ところで、「谺・山彦・谺」といふ表現は、「二部形式」あるいは「ダ・カアポ・アリア」といふ形式と類似してゐるのをお解りだらうか。


14、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(伴奏11)




 第十四曲目は、第十三曲目と同じやうに、しかし音程は下がつて、だが父や兄弟が見つかつてはゐないので、物語はまだ半ばである事を示唆(しさ)して後奏へと移行するのである。


15、YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903)作曲者未詳

『孝女白菊の歌(後奏)


 
 第十五曲目は、後奏は間奏の音樂と同じ曲で、ただ第一樂節の三、四小節を、第二樂節で倍に伸ばす事で終止感を與(あた)へて曲を終へるのである。
が、もし必要ならば、長歌の内容に合せて伴奏を追加して、九十二番まで全ての事件を髣髴(はうふつ)とさせる音樂にする事も可能であるのはいふまでもない。
 尤も、そこまでしようとは思はないのだが。

 では、最後に全曲を聽いて下さい。



YAMAHA QY100

落合直文(1861-1903) 作曲者未詳 編曲 高秋美樹彦

『孝女白菊の歌(全曲)



 序(つい)でに言へば、一番最初の『主題(Theme)』の楽譜は、全ての使用される樂器を譜面上に提示するのが本來あるべき姿なのだが(この曲の場合だと第十二曲目の譜面と同じ樂器編成の事)、煩雜だつたので省いてしまつた。
 これほど中途半端な事をしたまま放り投げるのだから、濠太剌利(オオストラリア)の樹(ナマケモノ)だと思つて戴いても、甘んじて受ける覺悟である。
 樹(ナマケモノ)に失禮かも知れないが。


2010年9月16日午後9時50分 妻の實家の美作土居にて




§




 新体詩 聖書 讃美歌集
(新日本古典文学大系 明治編12 岩波書店)
 『14、摂取本(セツシボン)』より



兼ねてから讀みたいと願つてゐた落合直文(1861-1903)の、

『孝女白菊の歌』

を、圖書(としよ)館から借りて來たのだが、これは明治二十一年に「東洋學會雜誌」に四囘に分けて掲載されたものである。


その書物によれば、

井上巽軒氏のものせられたる白菊の詩あり この歌それにならへり
さて今の歌に古言をのみ用ゐるはたがへり かつ長歌は五七のしらべ
にてうたひくるし 短歌はことばすくなく思(おもひ)をつくしがたし されば
今よりはたゞ今様のみやおこなはれなむ おのれ児童の唱歌にもと
宇佐のつかひ 壇の浦のたゝかひ 吉野のみゆき 湊川の子わかれな
どあまたよみおけり いづれもみづから考へ出たるしらべなり つぎ
つぎにのせて人々の教をこはむ こはそのひとつなり
                  落合直文(原文のまま)

とあるやうに、元は、井上哲次郎(巽軒(そんけん)1855-1944)の長篇漢詩、

『孝女白菊の詩』

は明治十七年に發表されたもので、それを七五調の今樣に和譯したものであつた。


この作品は冒頭を讀んだだけでも解るやうに、七五調といふ類似性だけでなく『平家物語』の影響を受けてゐるやうに思はれるが、素人の筆者が解析をするのも憚られるので、原作を見て戴いた方が早いと思はれる。
幸ひ、發表されてから百年以上が經()つてゐて著作權には牴觸(ていしよく)しないと考へられるので、少し長いがその全文をここに掲載したいと思ふ。
味はつていただかう。


§


     孝女白菊の歌

阿蘇の山里、秋ふけて。ながめさびしき、夕まぐれ。
いづこの寺の、鐘ならむ。諸行無常と、つげわたる。」
をりしもひとり、門に出で。 父を待つなる、少女あり。」
                    「少女(をとめ)
袖に涙を、 おさへつゝ。憂にしづむ、そのさまは。
           「憂(うれひ)
色まだあさき、海棠の。雨になやむに、ことならず。」
父は先つ日、遊猟に出で。今猶おとづれ、なしとかや。」
 「先(さき)」「游猟(かり)」「今猶(いまなほ)
軒端に落る、木の葉にも。かけひの水の、ひゞきにも。
        「かけひ(筧・樋(とひ)で水を引く装置)
父やかへると、うたがはれ。夜な夜なねぶる、をりもなし。」
                「ねぶる(眠る)
今宵は雨さへ、ふり出でゝ。庭の芭蕉の、音しげく。
       「出()
鳴くなる虫の、こゑごゑに。いとゞあはれを そへてけり。」
            「いとゞ(いよいよ)
かゝるさびしき、夜半なれば。ひとりおもひや、たへざらむ。
       「夜半(よは)
菅の小笠に、杖とりて。いでゆくさまぞ、あはれなる。」
八重の山路を、わけゆけば。雨はいよいよ、ふりしきり。
さらぬもしげき、袖の露。あはれいくたび、しぼるらむ。」
「さらぬもしげき(さうでなく絶えない)」「袖の露()
俄にそらの、雲はれて。月に光は、さしそへど。
父をしたひて、まよひゆく。こゝろの暗には、かひぞなき。」
                「暗(闇・やみ)
遠くあなたを、ながむれば。燈火ひとつぞ、ほのみゆる。
いづこの里か、わかねども。それをたよりに、とめてゆく。」
松杉あまた、立ちならび。あやしき寺の、そのうちに。
読経の声の、きこゆるは。いかなる人の、おこなひか。」
籬もなかば、やれくづれ。庭には人の、あともなく。
「籬(まがき)垣のこと」
月の影のみ、さえさえて。梢のあたり、風ぞふく。」
門べに立て、おとなへば。かすかに応ふ、声すなり。」
  「立(たち)
まつまほどなく、年わかき。山僧ひとり、いできたり。
「待つ間」
しばしこなたを、うちながめ。あやしみ居たる、さまなりき。」
少女はそれと、しるよりも。やがてまぢかく、すゝみより。
妾はあやしき、ものならず。父をたづねて、きつるなり。」
「妾(わらは)
あはれゆくへを、しらしなば。いかでをしへて玉へかし。」
少女の姿を、よくみれば。にほへる花の、顔に。
                  「顔(かんばせ)
柳の髪の、みだれたる。この世のものにも、あらぬなり。」
山僧こゝろや、とけぬらむ。少女をおくに、さそひゆき。
ぬしはいづこの、たれなるか。つばらにかたれ、われきかむ。」
             「つばら(詳細)
をりしも風の、ふきすさび。あたりのけしき、ものすごく。
軒の梢に、むさゝびの。鳴なる声さへ、きこゆなり。」
          「鳴(なく)
少女はいよいよ、たへがたく。落る涙を、うちはらひ。
             「落(おつ)
妾はもとは、熊本の。ある武士の、女なり。」
         「武士(もののふ)」「女(むすめ)
はじめは家も、とみさかえ。こゝろゆたかに、ありければ。
月と花とに、身をよせて。たのしく世をば、おくりにき。」
ひと年いくさ、はじまりて。青き千草も、血にまみれ。
ふきくる風も、なまぐさく。砲のひびきの、たえまなし。」
            「砲(つつ?)
親は子をよび、子は親に。わかれわかれて、四方八方に。
               「四方八方(よもやも)?」
はしりにげゆく、そのさまは。あはれといふも、あまりあり。」
この時母と、諸共に。そこを出で立ち、はるばると。
阿蘇のおくまで、のがれきて。しばしそこには、すみにけり。」
後にしきけば、父上は。賊にくみして、ましますと。
いふよりいとゞ、胸つぶれ。袖のひるまも、あらざりき。」
         「ひる(乾く・涙のも乾く間もない)
あけくれ父を、まつほどに。はやくも秋の、風たちて。
雲井のかりは、かへれども。おとづれだにも、なかりけり。」
  「雁書(手紙)」
母はおもひに、たへかねて。やまひの床に、つきしなり。
日ごと日ごとに、おもりゆき。つひにはかなく、世をさりぬ。」
父の生死も、わかぬまに。母さへかへらず、なりぬれば。
夢にゆめみし、こゝちして。おもへば今猶、身にぞしむ。」
いかにつれなき、わが身ぞと。思ひかこちて、ありつるに。
               「かこち(託つ・不平)
去年の春また、ゆくりなく。父は家にぞ、かへり来し。」
「去年(こぞ)」「ゆくりなく(不意に)
母のうせぬと、きゝしより。たゞになげきて、ありければ。
世のならはしと、なぐさめて。この年月は、すぎにけり。」
さきつ日かりにと、出しより。まてどくらせど、かへらぬは。
「先つ日(前の日)
またもこゝろに、たのみなく。かゝる山路に、たづねきぬ。」
妾の姓は、本田なり。名は白菊と、よびにけり。」
父は昭利、母は竹。兄は昭英、その兄は。
行あしく、父上の。怒りにふれて、家出せり。」
「行(おこなひ)
風のあしたも、雨の夜も。しのばぬ時の、なきものを。
いづこのそらに、まよふらむ。今猶ゆくへの、しれぬなり。
これをきくより、山僧は。にはかに顔の、けしきかへ。
ものをもいはず、墨染の。袖をしぼりて、居たりけり。」
しばらくありて、山僧の。少女に向ひ、いひけるは。
夜もはやいたく、ふけぬれば。あくるあしたを、またるべし。」
すゝむることばに、おのづから。ふかき情の、見えければ。
さすがに少女も、いなみかね。一夜はそこに、かりねせり。」
        「いなみ(否み)
ねぶるほどなく、戸をあけて。あやしく父ぞ、いりきたる。」
枕辺ちかく、さしよりて。こゑもあはれに、涙ぐみ。
われあやまちて、谷におち。今は千尋の、底にあり。」
谷は荊棘の、おひしげり。いでゝきぬべき、道もなし。」
 「荊棘(いばら)
明日さへしらぬ、わがいのち。せめてはこの世の、わかれにと。
おもふおもひに、たへかねて。なくなくこゝには、たづねきぬ。」
ことは終らぬ、その先に。裾ひきとめて、父上と。
呼ばむとすれば、あともなく。窓のともし火、影くらし。」
夢かうつゝか、あらぬかと。おもひみだれて、あるほどに。
曉ちかく、なりぬらむ。木魚の声も、たゆむなり。」



夜もやうやうに明はなれ。こゝろもなにかありあけの。
月のひかりの影おちて。庭のやり水音すごし。」
少女は寺をたち出て。まだもの暗き杉村を。
たどりてゆけば遠かたに。きつねのこゑもきこゆなり。」
道のゆくての枯尾花。おとさやさやにうちなびき。
ふきくる風の身にしみて。さむさもいとゞまさりけり。」
岩根こゞしき山坂を。のぼりつおりつゆくほどに。
 「こゞし(ごつごつ)
み山のおくにやなりぬらむ。人かげだにもみえぬなり。」
梢のあたりなくなるは。いかなる鳥のこゑならむ。
木陰をはしるけだものは。熊のたぐひにあるならむ。」
こゝは高根かしら雲の。袖のあたりをすぎてゆく。
わが身をのせてはしるかと。思へばいとゞおそろしや。」
はるばる四方をみわたせば。やままた山のはてもなし。
父はいづこにおはすらむ。かへりみすれどかひぞなき。」
     「おはす(「ゐる」の)尊敬語」「かひ(甲斐)
をりしもあとよりこゑたてゝ。山賊あまたよせきたり。
にぐる少女をひきとらへ。かたくその手をいましめぬ。」
「にぐる(逃げる)
あなおそろしとさけべども。人なき山のおくなれば。
山彦ならでほかにまた。こたへぬものもなかりけり。」
山のがけぢををれめぐり。谷の下道ゆきかよひ。
ともなはれつゝゆく程に。あやしき家にぞいたりける。」
やれかゝりたる竹の垣。くづれがちなる苔の壁。
あたりは木々にとざされて。夕日のかげもてりやらず。」
うちよりしれものいできたり。をとめのすがたをみてしより。
   「しれもの(痴れ者・暴漢)
めでたきえものとおもひけむ。ほ手うちはらふさまにくし。」
             「ほ手(手を卑しめた語)
かねてまうけやしたりけむ。酒とさかなをとりいでゝ。
  「まうけ(設け・支度)
のみつくらひつするさまは。世にいふ鬼にことならず。」
かしらとおぼしきものひとり。少女のもとにさしよりて。
ひげをなでつゝいひけるは。われはこの家のあるじなり。」
汝のこゝにとらはれて。きたるはふかき縁なり。」
                 「縁(えにし)
今よりわれを夫とたのみ。この世のかぎりつかへてや。」
     「夫(つま)」
わが家に久しくひめおける。いとも妙なる小琴あり。」
               「妙(たへ)
幾千代かけてちぎりせむ。今日のむしろのよろこびに。
              「むしろの~(婚姻の宴)
かなでゝわれにきかせてよ。うたひてわれをなぐさめよ。」
かりにもいなまむその時は。剣の山にのぼらせて。
針のはやしをわけさせて。からきうきめをみせやらむ。」
少女はいなとおもへども。いなみがたくやおもひけむ。
なくなく小琴をひきよせて。しらべいでしぞあはれなる。」
風や梢をわたるらむ。雁やみそらをゆくならむ。
軒ばを雨やすぎつらむ。岸にや波のよせくらむ。」
いとも妙なるしらべには。かしこき神もまひやせむ。
いともめでたき手ぶりには。ひそめる龍もおどるらむ。」
嵯峨野のおくにしらべたる。想夫恋にはあらねども。
          「相夫恋(さうふれん・雅樂)」
父のゆくへをしのぶなる。こゝろはなにかかはるべき。」
みねのあらしか松風か。たづぬる人のことの音か。
ひとり木かげにたゝずみて。きゝゐし人やたれならむ。」
たづぬる人の妻音と。いよいよ心にさとりけむ。
     「妻音(爪音?・琴を彈く音)
しらべの終るおりしもあれ。きりていりしぞいさましき。」
            「きりていり(切入る)
刃のひかりにおそれけむ。とみのことにやおぢにけむ。
 「刃(やいば)」  「とみ(頓に・急に)」「おぢ(怖ぢ)
きられてさけぶものもあり。おはれてにぐるものもあり。」
きりていりにしその人の。すがたはそれとわかねども。
身にまとひしはすみぞめの。ころもの袖としられたり。」
わなゝく少女の手をばとり。月の影さすまどにきて。
なおどろきそおどろきそ。われは汝の兄なるぞ。」
「な~そ(おどろくな)
いざこまやかにかたらはむ。心をしづめてきゝねかし。」
父のいかりにふれしより。こゝろにおもふことありて。
東の都にのぼらむと。つくしの海をば船出しぬ。」
あらき波路のかぢまくら。かさねかさねて須磨明石。
     「かぢ()
淡路のしまをこぎめぐり。むこの浦にぞはてにける。」
           「むこ(武庫・地名)
こゝより陸路をたどりしに。ころは弥生の末なれば。
並木のあたり風ふきて。ころものそでに花ぞちる。」
都につきしその後は。たゞ文机によりゐつゝ。
朝夕ならひし千々のふみ。はじめて人の道しりぬ。」
父のめぐみをしるごとに。母のなさけをしるたびに。
くやしきことのみおほかれば。なきてその日をおくりけり。」
こゝろをあらため仕へむと。ふるさとさしてかへりしに。
いくさのありしあとなれば。そのさびしさぞたゞならぬ。」
みわたすかぎりは野となりて。むかしのかげもあらしふく。
尾花の袖もうちやつれ。露の玉のみちりみだる。」
こゝやわが家のあとならむ。そや父母の死体ならむ。
                 「死体(から)
てらす夕日のかげうすく。ちまたの柳にからすなく。」
たのみすくなきわが身ぞと。思ひわぶればわぶるほど。
              「わぶる(歎く)
うき世のことのいとはれて。かの山寺にのがれけり。」
朝夕読経をするごとに。はかなきことのみかこたれて。
                  「かこ(託つ)
よみゆく文字の数よりも。しげきは袖のなみだなり。」
           「しげき(何度も)
たちまちそなたのたづねきて。ことのよしをばきゝし時。
そのうれしさやいかなりし。そのかなしさやいかなりし。」
たゞにわが名を名のらむと。おもひしかどもしかすがに。
         「しかすがに(然し乍ら・一方で)
名のりかねたる身のつらさ。名のるより猶つらかりき。」
あかつきふかくわかれしを。道にてこともやありなむと。
あとをおもひきて今こゝに。汝をかくはたすけたり。」
そなたをたすけし上からは。こゝろにのこることもなし。
この後なにのおもてにて。父にふたゝびまみえまし。」
かの世にありてまたなむと。いひもはてぬに剣太刀。
               「剣太刀(つるぎたち)
ぬく手もみせず一すぢに。はらをきらむのさまなりし。」
少女はみるよりこゑたてゝ。かたくその手をおさへつゝ。
なきつさけびつなぐさむる。こゝろのそこやいかならむ。」
をりしもそらの霜しろく。夜半のあらしの音たえて。
雲間さへゆく月影に。かりがね遠くなきわたる。」



四方にきこゆる、虫の音も。あはれよわると、きくほどに。
あり明月夜、かげきえて。みねのよこ雲、わかれゆく。』
しづかにそこを、たち出て。あたりのさまを、ながむれば。
軒のまつ風、声かれて。あれたる庭に、霜しろし。』
手をばとられつ、とりつして。かたみに山路を、すぎゆけば。
夕の賊の、むれならむ。あとよりあまた、おひてきぬ。』
山僧それと、しりしかば。はやくもをとめを、遁しやり。
                    「遁(のがれ)
ひとりそこには、とゞまりて。きりつきられつ、たゝかひつ。』
しげる林を、をれめぐり。谷のかけ橋、うちわたり。
少女はからく、にげたれど。あとにこゝろや、のこるらむ。』
きられていたでは、おはせぬか。兄上さきく、ましませと。
               「さきく(幸く・無事で)
はるかに高ねを、うちながめ。しのぶこころぞ、あはれなる。』
道のかたへに、しめゆひし。小祠はたれを、まつるらむ。
      「しめゆひ(注連)」「小祠(ほこら)
なみだながらに、ぬかづきて。いのるこゝろを、神やしる。』
       「ぬかづく(禮拝)
そこに柴かる、翁あり。なくなる少女を、みてしより。
いかにあやしと、おもひけむ。こなたにちかく、よりてきぬ。』
ことのよしをば、たづねしに。まことかなしき、ことなれば。
翁はをとめを、なぐさめて。わが家にともなひ、かへりけり。』
ふかくとざしゝ、柴の門。なかばやれにし、竹のかき。
かた山里の、しづけさは。ひる猶夜に、ことならず。』
木々の木葉の、ちりみだれ。まがきの菊の、いろもなく。
あらしは時雨を、さそひきて。むしのなくねも、いとさむし。』
父のゆくへに、兄の身に。朝夕こゝろに、かゝれども。
ふかきなさけに、かまけつゝ。しばしとそこに、とゞまりぬ。』
ひまゆくこまの、あしはやみ。二とせ三とせは、夢の間に。
「ひまゆく(隙間に見る馬・光陰矢の如し)
はかなくすぎて、またさらに。のどけき春の、めぐりきぬ。』
み山の里の、ならひにて。髪もすがたも、みだるれど。
しづが垣根に、咲梅の。かほりゆかしと、たれもみむ。』
「しづ(賤しい)
里の長なる、なにがしも。ほのかにそれと、きゝつらむ。
 「長(をさ)
人ひとり、たのみきて。ながきちぎりを、もとめけり。』
「媒人(なかうど)
翁はいたく、かしこみて。こへるまにまに、ゆるしたり。』
をとめはかくと、きゝしとき。そのおどろきや、いかならむ。
袖もてなみだを、おさへつゝ。たゞになきてぞ、居たりける。』
おもひまはせば、母上の。この世をさらん、そのをりに。
妾をちかく、めし玉ひ。いひのこされし、ことこそあれ。』
ある年秋の、末つかた。み墓まゐりの、かへるさに。
つゆけき野路を、わけくれば。しら菊あまた、さきみてり。』
にほへる花の、そのなかに。あはれなく子の、声すなり。』
かゝるめでたき、子だからを。いかなる親か、すてつらむ。
かなしき事にて、ありけりと。ひろひとりしは、そなたなり。』
             「ひろひ(拾ひ)
菊さく野辺にて、あひたるも。ふかきちぎりの、あるならむ。
千代に八千代に、さかえよと、やがてその名を、おはせにき。』
                「その名(白菊)
更につぐべき、事こそあれ。汝はたえて、しらざれど。
汝の兄とも、たのむべく。夫ともいふべき、人こそあれ。』
はやく家出を、なしてより。今にゆくへは、わかねども。
老たる父も、ましませば。かならず、かへりくべきなり。』
かへりきたらむ、そのをりは。ゆくすゑかけて、ちぎりあひ。
夫といひ、妻とよばれつゝ。この世たのしく、おくりてや。』
「夫()
母のいまはの、ことの葉は。今猶耳に、のこるなり。
いかでか教を、そむくべき。いかでか教に、そむかれん。』
   「教(をしへ)
さはいへ、ここに来てしより。翁のめぐみは、いとふかし。
「さは(然は・とは云へ)
とやせんかくと、人しらず。おもひまどふも、あはれなり。』
「とやせんかく(ああしようかうしよう)
かれをおもひて、なきしづみ。これをおもひて、うちなげき。
おもふおもひは、千々なれど。死ぬるひとつに、さだめけり。』
をりしも媒人、いりきたり。をとめにおくりし、そのものは。
にしきの衣に、あやのそで。実にもまばゆく、みえにけり。』
            「実()
をとめのこゝろの、かなしさを。あたりの人は、しらざらむ。
みつゝ翁の、よろこべば。隣の嫗も、来ていはふ。』
           「嫗(おうな)」「いはふ(祝ふ)
雨ふりいでて、てる月の。かげもおぐらき、さ夜中に。
いづこをさして、ゆくならん。少女はしのびて、家出しぬ。』
村里遠く、はなれきて。川風さゆる、小笹原。
死をいそぎつゝ、ゆきゆけば。水音すごく、むせぶなり。』


雲井をかへるかりがねも 小笹をわたる風の音も
にぐる少女のこゝろには 追手とのみやきこえけむ」
胸つぶれしはいくそたび 胸いためしはいくたびか」
橋のたもとに身をかくし 我こしかたをながむれば
里をのゝともし火の 影よりほかに影もなし」
「遠里小野(をりおの)掛詞・をんり(とほざと)?」
下にながるゝ川水の 底のこゝろはしらねども
少女が死をやいそぐらむ あはれかなしき音すなり」
死ぬるいのちは惜まねど かくとしらさむその折は
            「かくと~(知つた時には)
さこそなげかめ父上の いかにかこたむわが兄は」
父上ゆるさせ玉ひてよ 兄上うらみなし玉ひそ
この世をわれは先だちて 母のみもとに待てあらむ」
南無阿弥陀仏と言すてゝ とばむとすれば後より
                  「後(うしろ)
まちてとよびて引とめし 人はいかなる人ならむ」
おぼろ月夜のかげくらく さやかに夫とわかねども
               「夫(それ)
春秋かけてしのびてし 兄と少女はしりにけり」
夢かうつゝかまぼろしか おもひみだるゝさ夜中に
里のわらべのふきすさぶ 笛の音遠くきこゆなり」
とひつとはれつこし方を きゝつきかれつゆく末を
一夜かたりてあかせども 猶ことのはゝのこりけり」
わがふる里のこひしさに 道をいそぎてかへらむと
野こえ山こえゆきゆけば かすみもなびき花もさく」
日数もいくかふる雨に ぬれてやつるゝたび衣」
「日数(ひかず)
家にかへりしそのをりは 五月ころにやありつらむ
山ほとゝぎすなきしきり かどの立花かをるなり」
しげる夏草ふみわけて 軒ばをちかくたちよれば
むかししのぶの露ちりて 袖にかゝるもあはれなり」
妻戸おしあけ内みれば あやしく父はましましき」
「妻戸(開き戸の事)」
こなたの驚きいかならむ かなたの嬉しさ亦いかに
                  「亦(また)
父上さきくと音なへば 子等もさきくと答ふなり
ことをこまかに聞てより 父もあはれとおもひけむ
兄のいましめゆるしやり 妹のみさをゝほめにけり」
           「妹(いも)」
親子の三人うちつどひ すぎにし事共語りあひて
くむ杯のそのうちに うれしきかげも浮ぶなり」
われあやまちて谷におち のぼらむすべもあらざれば
木の実を拾ひ水のみて ながき月日をおくりにき」
ある日の朝おきいでゝ 峰のあたりをみあぐれば 
   「朝(あした)
ながくかゝれる藤かづら 上に猿のなきさけぶ
             「猿(ましら)
なくなる声のなにとなく こゝろありげに聞ゆれば
神のたすけとよぢのぼり 始めてみねにのぼりえつ」
嬉しとあたりを見渡せば さきのましらは跡もなく
木立のしげき山かげに 蝉のこゑのみきこゆなり」
浮世のならひと言ながら うき世の常とは聞ながら
人になさけのうせはてゝ 獣にのこるぞあはれなる」
父のことばをきゝ居たる 二人の心やいかならむ
うれしと兄のたちまへば たのしと妹もうたふなり」
               「妹(いも)
千代に八千代といひいひて ともに喜ぶをりしもあれ
後の山のまつがえに 夕日かゝりてたづぞなく」
「後(うしろ)」        「たづ(田鶴)」 


      以上『岩波書店』刊行による原文の儘()、「()」内は筆者註』。


§


筆者も全文に目を通すのはこれが初めてなのだが、筆者が知つてゐる文章がないのでどうしてかと思つてゐたら、明治三十七年に「萩之家遺稿」といふのがあつて、その中に件(くだん)の一節はあつた。曰く、

「歳は十九の 春あさく 色香ふくめる そのさまは
梅かさくらか わかねども 末たのもしく 見えにけり」

この表現の美しさに、少年の頃の筆者はまゐつてしまつたのである。
全文を讀めた事に、大變(たいへん)滿足してゐる。
異稿はこれ以外にも可成(かなり)あるやうだが、詳細は省いておく事にする。
なほ、こんにちでは殆ど忘れ去られてしまつて筆者も知らないのだが、當時、この詩には作曲までされてゐて、廣く人口に膾炙(くわいしや)されたやうであり、時代背景としてもそれ程古くなく、西郷隆盛で有名な「西南の役」あたりが舞台となつてゐるさうである。
音樂は、出來れば見つけて紹介したいと思つてゐる。


このやうに、この作品を調べて圖書館にまで行つて借りようとするなんて、これも偏(ひとへ)に世界通信網(インタアネツト)に作品を發表するといふ愉しみが出來たからにほかならない。
樣々な人とのやり取りを自宅にゐながら交流出來、調べてみたら「白菊」に關する記事も隨分あつて、巨大な智識と自分の作品の倉庫を手に入れたのも同じ事のやうに思つてゐるけふこの頃である。


二〇一〇年 九月朔日(ついたち)