2012年2月27日月曜日

サン=サーンス聖桑Saint-Saens With Bottle Introduction et Rondo Capriccioso 薔薇園

This is music made ​​with "YAMAHA QY100" of SEQUENCERS.
これはSEQUENCERSの「YAMAHA QY100」で作った音楽です。



Saint-Saens 
聖桑

With Bottle

Introduction et Rondo Capriccioso
序奏とロンド・カプリチオーソ

薔薇園




この有名な曲は、貝多芬(ベエトオヴエン・1770-1827)の『エリイゼの爲に』のやうな誰にでも親しめる標題的な題名(タイトル)だつたら、もつと多くの人に聞かれただらうにと思はれる方が多いかも知れない。
けれども、この曲は題名を見ただけでどういふ構成になつてゐるか、音樂好きな人なら直ぐに解るやうになつてゐる。
 所謂、「輪舞(ロンド)形式」は「ABACADAEA」といふ形式で作曲されるもので、それは『エリイゼの爲に』も同じ形式であるが、純音樂的な鑑賞が氣に入つてゐるので、どちらもさういふ風に分析的に聞いてしまふ。
想曲(カプリチオオソ)とは「氣まぐれ」といふ意味で、嚴格な「輪舞(ロンド)形式」ではなく、極めて自由度の廣い音樂として作曲されてゐる。
曲は官能的な序奏から、情熱的な輪舞(ロンド)の主題と、それを取り圍むやうなクプレ (Couplet)或いはエピソオド(Episode)によつて構成されてゐるこの曲は、サン=サーンス(C.Saint-Saens1835-1921)が二十八歳の時の作品で,當時十九歳のサラサーテ(Sarasate1844-1908)に捧げられてゐる。
原曲はヴアイオリン(Violin)の爲の協奏曲なんですが、YAMAHA QY100の「Violin」の音源に不滿がありましたので、『ケエナ(Quena)』風の音で作つて見ました。
映像は これまでの使ひ廻しで面白くありませんが、音樂的には近頃にない會心の出來だと滿足してゐます。
自作(original)の裝飾的獨奏(cadenza)を輕くつけてみました。

2012年2月25日土曜日

共に生きてBridal song 作詞 村崎文男 作曲 高秋美樹彦 YAMAHA QY100

YAMAHA QY100

Bridal song

共に生きて

作詞 村崎 文 男
作曲 高秋 美樹彦








一、()君と共に生きる それが僕の願ひ
たとへ時に限りが あつても悔いはない
    だつて君にめぐり逢ふ それまでを考へたら
    何をしてゐたのか 日々を持て餘(あま)して……
    人が喜び 幸せになる
    それを自分の喜びとする
    それが生きる事だと 教へてくれた君

二、()あなたと共に生きる それは私の願ひ
    たとへ時が移ろひ 老いを迎へても
    この世であなたと出逢ふ その事だけで奇蹟ね
    だつて時と所が 違ふと思つたら……
    あなたの喜び 樂しみの爲
    それが私の幸せだから
    命を預けてしまふ あなたとの船出に

三、()君と共に生きる それが僕の願ひ
()あなたと共に生きる それは私の願ひ
(男女)二人で豐かに過す その事を考へたら
    何も怖くないさ 何處までも一緒に
    互ひに譲つて 分ち合へれば
    互ひに守つて 庇(かば)ふ幸せ
    今日から始まりだね 二人だけの世界


§



 この曲に使用した映像は、長男と次女の結婚式を撮影したものです。
 皆さんに遠慮なく歌つて戴ければ、こんな嬉しい事はありません。


§


 この『共に生きて』といふ曲は、それまで親戚や我が子の結婚式に撮影した時の映像に既存の曲を使用してゐたのだが、一層のこと自作(Original)があればと考へて作曲したもので、實際に使用したのは妻の妹の子供の結婚式の時が最初で、次に長男の結婚式の映像に使つた、いや、さういへば三年ほど前に入院で手術をした時に、その病院の看護婦さんが結婚式を擧げるといふので、この曲の楽譜を渡して良ければ使用してくださいと言つた事があつたので、若しかするとそこで使はれてゐればそれが一番最初といふ事になる。
 この曲の間奏は、戀人同志になる男女の出逢ひは運命的なものだと思はれるので、貝多芬(ベエトオヴエン/Beethoven1770-1827)の『交響曲 第五番 運命』を拜借してゐて、續いて孟徳爾頌(メンデルスゾオン/Mendelssohn1809-1847)の『眞夏の夜の夢』の中の「結婚行進曲」のフアンフアアレ(Fanfare)から主題(テエマ)までを使用したのだが、この最初のフアンフアアレは恐らく結婚も運命的なものだと考へた彼がベエトオベンに敬意(オマアジユ)を表した結果ではないかと勝手に思つてゐる。
 メンデルスゾオンの曲の途中から、瓦格納(ワアグナア/Wagner1813-1883)の『ロオエングリイン』の中の「結婚行進曲」が流れ、この二つが多聲音樂(ポリフオニイ・Polyphony)のやうに絡み合つて、やがて『共に生きて』の主題が風琴(オルガン)と合唱(コオラス)となる。
 ことのついでに言へば、この曲の前奏と三番の歌詞の前の間奏と最後の後奏も、よく聞けば「運命」の影響下にあると氣づかれるだらう。

     二〇一二年二月二九日四時十五分




§



樂譜





















2012年2月24日金曜日

Original(自作) Music at the time of travel (旅の音樂)

This is music made ​​with "YAMAHA QY100" of SEQUENCERS.
これはSEQUENCERSの「YAMAHA QY100」で作った音楽です。


Original
(自作)

Music at the time of travel
(旅の音樂)

§


Strings
(絃楽)の爲の

『It be provoked by wind』
(風に誘はれて)



Instrument







風に誘われて     作詞 村崎 文 男
         作曲 高秋 美樹彦

一、風に誘はれて 見知らぬ街角
  ひとりさすらふ私 過去を斷ち切つて
  窓に流れ去る 景色を見てると
  もしかしたらと思ふ 後ずさるやうに
  忘れやうとして 捨てたつもりが
  隠れた棘に 痛み出す
  遠くで谺が 響き返すやうに
  あなたの面影 呼び戻すから
  止まり木なくして 飛ぶ鳥のやうに
  私の行く未來は 何処にあるのだらう

二、いにしへから 誰もが皆
  果てない道を 行く旅人
  雨や 吹きすさぶ風の中も
  吼える 雪に向かつて 踏み出さう
  糸を失つて 舞ふ凧のやうに
  私の住處つくる 道はまだ半ば

三、風に誘はれて 旅立つ心は
  新たに見えるものを 胸に刻みつつ
  本當の自分を 捜す旅といふが
  そんなものは何處にも ある筈もなくて
  あるとすれば この身ひとつで
  歩んで來た ものが全て
  振向く後ろの 道がその證し
  他には形に 残りはしない
  風に誘はれて 風に誘はれて
  私を築く旅は まだ續いてゐる

















§

旅の色
(Color Travel)

Instrument



旅の色(Color Travel)
作詞 村崎 文 男 
作曲 高秋 美樹彦

ひとりで 旅に出よう
気が向いた時に
振り向けば 置き去りの
見慣れた 街角
追ひかけて
呼び止める人などなく
遠くに待つてゐる
人さへない
それでも出かけよう
今を生きるため
當てもない旅でも
逃げるわけぢやない

春は櫻で 緑の夏へ
紅葉の秋が過ぎて 白い冬
めぐる季節 形あるもの
心は移ろひ 風に化ける

遠くへ 旅に出よう
すべてを振り捨て
着慣れた衣を
脱ぎ捨てるやうに
行き着けば
そこには何かがあり
新たに生まれる
ものさへある
めぐる季節 形あるもの
心は移ろひ 風に化ける
だから
觸れ合ふ温もりを
人と感じあふ
人は皆 何處ででも
暮らして行けるのさ















§

Strauss Family(施特勞斯一家/シユトラウス・フアミリイ)The scent of Wien(維納の香り)


This is music made ​​with "YAMAHA QY100" of SEQUENCERS.
これはSEQUENCERSの「YAMAHA QY100」で作った音楽です。







Strauss Family
(施特勞斯一家/シユトラウス・フアミリイ)

The scent of Wien
(維納の香り)


§

『Pizzicato Polka』 

庄内神社の戎祭り


§


 "FRUHLINGSSTIMMEN"WALZER
(春の聲)
Op.410

服部戎&庄内戎




2012年2月9日木曜日

Mozart Die Opera "Zauber flöte" K. 620 モオツアルト 歌劇 魔笛"The Magic Flute"


This is music made 
​​with "YAMAHA QY100" of SEQUENCERS.
これはSEQUENCERSの「YAMAHA QY100」で作った音楽です。


Mozart
(モオツアルト/莫差特・1756-1791)

Opera(歌劇)
"Die Zauberflöte(魔笛)"


§

OUVERTURE(序曲)


  歌劇に於ける序曲とは聖餐(フルコオス)の料理の前菜と同じで、主菜が來るまでの準備をするやうなもので、この曲もこれから何が起きるのだらうかとわくわくしながら物語の世界へと誘(いざな)つて行くに充分な血湧き肉躍る音樂となつてゐる。
  流石は莫差特(モオツアルト(Mozart)1756-1791)といふところで、安心して音樂に身を任せてゐられる。



§



Introduktion (導入)

Zu Hilfe! zu Hilfe! (助けてくれ! 助けてくれ!)




§


Arie "Der Vogelfänger bin ich ja(私は鳥刺し)







§




Bei Mannern welche Liebe fuhlen
(愛を感じる男の人達には)










 一九七三年に制作された伊太利映畫の『愛の嵐(Il Portiere di notte)』の中で、欧羅巴(ヨオロツパ)各地を公演に廻るオペラ指揮者の良人に從つて來た妻が、とあるホテルに泊ることになつた。 
 が、そのホテルの夜間受付の男を見て女は過去の忌はしい記憶を思ひ出す。 
 女はユダヤ人で男はナチの将校だつた。 
 二人の出逢ひは強制収容所で、女は男の言ふ事を聞かなければ明日をも知れない命の境遇である。 
 男はそれをいい事に女の心も身體(からだ)も思ひのままにする。 
 戰後、その生存(いきなが)らへた二人が出逢つてしまつたのである。 
 女は良人との穩やかな生活にささやかな幸福を感じてゐるらしかつたが、その男と出逢つた事で命をかけた激情に翻弄された過去の男との思ひ出にのめり込んで現實の世界へ持ち込んでしまふ。 
 ホテルで二人が怯えながら『愛の嵐』の中へ迷ひ込んで行く時、女の良人は劇場でモオツアルトの『魔笛』の指揮をしてゐて、この有名な、 

 『Bei Mannern welche Liebe fuhlen(愛を感じる男の人達には)』 

 この音樂が流れるのである。 
 實(まこと)に、西洋の人々に音樂が素養としての深さが身についてゐるのが窺はれて羨望を禁じ得ない。 
 巨匠ルキノ・ヴィスコンティが絶賛したと言はれる、リリアアナ・カヴアニ監督の名作である。 

     二〇一一年二月八日午前九時過ぎ 




※追記 

この映畫は音樂の使ひ方ひとつでかうも効果が上がるといふ好例で、 

深刻な現實に陽氣な音樂といふ對位法な表現方法は、 

昔からある技術(テクニツク)なんですがね。 

この曲は貝多芬(ベエトオヴエン・1770-1827)が変奏曲にしてゐますが、 

『森のくまさん』にそつくりの變奏部分があります。 

ご一聽を!

  








§




Konnte jeder brave Man(立派な男が誰も皆)




この曲、シユウベルト野ばらに似てません?




§

  "Arie - "Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen"
No.14: アリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」
































2012年2月7日火曜日

HANDELIANA(ヘンデル讃歌)




This is music made 
​​with "YAMAHA QY100" of SEQUENCERS.
これはSEQUENCERSの「YAMAHA QY100」で作った音楽です。






HANDELIANA(ヘンデル讃歌) 




§


歌劇(Opera)
Orlando


 Ho un certo rossore










§


歌劇(Opera)
Orlando
『Finche prendi ancora il sangue』
(Duetto)










§


歌劇(Opera)
Orlando
『Non potra, dirmi ingrata,』





小林秀雄が『モオツアルト』でト短調の絃樂五重奏曲を、

「確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いのように、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。」

と評したが、私は「かなしさは疾走する」といふ借物の表現よりも、その後の「万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉」といふ指摘の方に共感を覺える。
尤も、『詩作に就いて』で書いたやうに、悲しい事を「悲しい」と喜怒哀樂を生の言葉で表現するのは詩人としては失格だと言はねばならないのだが、詩は兔も角、短歌に限つて言へば「悲し」といふ選擇は許される範圍の美しい言葉であると思つてゐる
器樂曲での短調のアレグロは莫差特(モオツアルト(Mozart)1756-1791)でも成し得たが詠唱(アリア)や合唱(コオラス)での悲しみは韓徳爾(ヘンデル(Handel)1685-1759)ほど「涙が追ひつけない」疾走はしなかつた。
ヘンデルこそは音樂の職人と呼べる數尠(かずすくな)い内の一人であると思はれる。



詩作に就いて
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51116310&comm_id=4657977





§


 浪花節から歌劇(オペラ)まで、音樂ならば何でも聞くと日頃から豪語してゐる私だが、それでも傾向としては、所謂(いはゆる)古典音樂(クラシツク)を聞く機會が斷然多くなつてしまふ。
 中でも、莫差特(モオツアルト・1756-1791)や巴哈(バツハ・1685-1750)や毘跋留的(ヴイヴアルデイ(Vivaldi)1678-1741)などがお氣に入りだが、特に好きなのが韓徳爾(ヘンデル・1685-1759)である。

 ヘンデルの何處が好きなのかと言はれれば、合唱曲の處理が素晴らしいとか、玄人好みの樂曲展開における快感とか、數へ上げれば幾つもあつて大變(たいへん)難しい事だが、ヘンデルが好きな理由を一つだけ上げるとすれば、バロツク期の特徴でもある多聲音樂(ポリフオニイ・Polyphony)の時代の作曲家らしく、二聲以上の異なつた旋律がからみ合ひながら提示される事で、例へば、

 『聖譚曲(Oratorio) 救世主(Messiah)

 の中の詠唱(アリア)の一曲、

 『How beautiful are the feet(あゝ美しきかな喜びの音信を告ぐるものの足よ)

 といふ曲があるが、この主旋律は、 







 このやうにとても美しい旋律だが、これに對する旋律は、 





 この曲の低音部の旋律の美しさときたら、主旋律に引けを取らない美しさで、これで曲を作つても構はないだらうと思はれる程で、謂はば一曲で二曲分を味はつたやうな贅澤な氣分に浸れるのである。
 全曲を聞いて見よう。 





 なんと美しい曲だらう。



     二〇一〇年師走一五日午前三時


§ 



HANDELIANA(ヘンデル讃歌) 


 前囘に紹介した、

 『聖譚曲(Oratorio) 救世主(Messiah)

 の中の詠唱(アリア)の一曲、

 『How beautiful are the feet(あゝ美しきかな喜びの音信を告ぐるものの足よ)

 その美しさを堪能して戴けただらうか。
 ヘンデルにはこれより更に面白い作品がある。
 それは綺麗な旋律が前奏として流れて來るから、次にそれを歌ふのだらうと待つてゐると、歌手はそれを歌はしてはもらへず、違ふ旋律でその綺麗な旋律に纏はりつかなければならないのである。
 和聲音樂(ホモフオニイ・Homophny)になつてからの作曲家である、あのモオツアルトにしてからが『すみれ』といふ有名な曲があり、それは『有節歌曲』ではなく『通節歌曲』といふ高度な作品に仕上げてゐる。
 けれども、この曲のやうに主旋律を前奏として、その後に同じ旋律を歌ひ始めるといふやうなありふれた曲作りをする始末である。
 全曲を聞けば、 






 このやうに素晴らしい曲ではあるが、映畫『アマデウス』の中で、

 「ヘンデルは嫌ひだ」

 とモオツアルトに言はしめてモオツアルトの優位性を示さうとしてゐるが、實際の彼はヘンデルの『メサイア』やその他の大曲を編曲してゐて、モオツアルトの最後の『死者の爲の彌撤(みさ)曲』の冒頭の曲は、ヘンデルからの借用であるのは有名な話であり、ヘンデルの影響を彼でさへ受けてゐるのである。

 それがヘンデルの、

 『May at last my weary age

 場合だと、 







 こんなに美しい前奏だから、この旋律が歌はれるのだらうと、手藥煉(てぐすね)を引いて息をひそめてゐると、 





 このやうに歌手は違ふ旋律を與(あた)へられて歌はしてもらへなくて、もどかしい思ひをしなければならないのである。
 全曲を聞いて見よう。 





 このやうにヘンデルの曲では、歌手はお預けを喰つたやうな状態で歌ひ、鑑賞者はそれを聞きながら一種の驚きを禁じ得ないのだが、それを理解する者にとつては、それは決して不快ではなく、むしろ快感でさへある。
 このやうにバロツク期の特徴でもある『多聲音樂(ポリフオニイ・Polyphony)』の二聲 以上の異なつた旋律がからみ合ふといふ特性を活用しながら提示される。
これがヘンデルを好きにならざるを得ない理由の一つなのである。


     二〇一〇年師走一五日午前三時


)彼には外にもこのやうな曲が幾つもあるが、主なものを掲げれば、

韓徳爾(ヘンデル・1685-1759)主が家を建てたなら

韓徳爾(ヘンデル・1685-1759)主を褒めよ

などがあるので、一聽して戴ければと思ふ。
猶、これ以外に日本のピアニストの小原孝といふ人がゐるが、この人のアルバムに、蕭邦(シヨパン・1810-1849)の『洋琴(ピアノ)協奏曲』と『北の宿から』と『津軽海峡冬景色』をポリホニイとしたり、他にも色々愉しんで發表してゐるのを聞くのも一興だらう。


§

 『In den sngenehmen buschen

(九つのドイツアリアより)
HWV 209
上月城址