2012年2月7日火曜日

HANDELIANA(ヘンデル讃歌)




This is music made 
​​with "YAMAHA QY100" of SEQUENCERS.
これはSEQUENCERSの「YAMAHA QY100」で作った音楽です。






HANDELIANA(ヘンデル讃歌) 




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歌劇(Opera)
Orlando


 Ho un certo rossore










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歌劇(Opera)
Orlando
『Finche prendi ancora il sangue』
(Duetto)










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歌劇(Opera)
Orlando
『Non potra, dirmi ingrata,』





小林秀雄が『モオツアルト』でト短調の絃樂五重奏曲を、

「確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いのように、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。」

と評したが、私は「かなしさは疾走する」といふ借物の表現よりも、その後の「万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉」といふ指摘の方に共感を覺える。
尤も、『詩作に就いて』で書いたやうに、悲しい事を「悲しい」と喜怒哀樂を生の言葉で表現するのは詩人としては失格だと言はねばならないのだが、詩は兔も角、短歌に限つて言へば「悲し」といふ選擇は許される範圍の美しい言葉であると思つてゐる
器樂曲での短調のアレグロは莫差特(モオツアルト(Mozart)1756-1791)でも成し得たが詠唱(アリア)や合唱(コオラス)での悲しみは韓徳爾(ヘンデル(Handel)1685-1759)ほど「涙が追ひつけない」疾走はしなかつた。
ヘンデルこそは音樂の職人と呼べる數尠(かずすくな)い内の一人であると思はれる。



詩作に就いて
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51116310&comm_id=4657977





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 浪花節から歌劇(オペラ)まで、音樂ならば何でも聞くと日頃から豪語してゐる私だが、それでも傾向としては、所謂(いはゆる)古典音樂(クラシツク)を聞く機會が斷然多くなつてしまふ。
 中でも、莫差特(モオツアルト・1756-1791)や巴哈(バツハ・1685-1750)や毘跋留的(ヴイヴアルデイ(Vivaldi)1678-1741)などがお氣に入りだが、特に好きなのが韓徳爾(ヘンデル・1685-1759)である。

 ヘンデルの何處が好きなのかと言はれれば、合唱曲の處理が素晴らしいとか、玄人好みの樂曲展開における快感とか、數へ上げれば幾つもあつて大變(たいへん)難しい事だが、ヘンデルが好きな理由を一つだけ上げるとすれば、バロツク期の特徴でもある多聲音樂(ポリフオニイ・Polyphony)の時代の作曲家らしく、二聲以上の異なつた旋律がからみ合ひながら提示される事で、例へば、

 『聖譚曲(Oratorio) 救世主(Messiah)

 の中の詠唱(アリア)の一曲、

 『How beautiful are the feet(あゝ美しきかな喜びの音信を告ぐるものの足よ)

 といふ曲があるが、この主旋律は、 







 このやうにとても美しい旋律だが、これに對する旋律は、 





 この曲の低音部の旋律の美しさときたら、主旋律に引けを取らない美しさで、これで曲を作つても構はないだらうと思はれる程で、謂はば一曲で二曲分を味はつたやうな贅澤な氣分に浸れるのである。
 全曲を聞いて見よう。 





 なんと美しい曲だらう。



     二〇一〇年師走一五日午前三時


§ 



HANDELIANA(ヘンデル讃歌) 


 前囘に紹介した、

 『聖譚曲(Oratorio) 救世主(Messiah)

 の中の詠唱(アリア)の一曲、

 『How beautiful are the feet(あゝ美しきかな喜びの音信を告ぐるものの足よ)

 その美しさを堪能して戴けただらうか。
 ヘンデルにはこれより更に面白い作品がある。
 それは綺麗な旋律が前奏として流れて來るから、次にそれを歌ふのだらうと待つてゐると、歌手はそれを歌はしてはもらへず、違ふ旋律でその綺麗な旋律に纏はりつかなければならないのである。
 和聲音樂(ホモフオニイ・Homophny)になつてからの作曲家である、あのモオツアルトにしてからが『すみれ』といふ有名な曲があり、それは『有節歌曲』ではなく『通節歌曲』といふ高度な作品に仕上げてゐる。
 けれども、この曲のやうに主旋律を前奏として、その後に同じ旋律を歌ひ始めるといふやうなありふれた曲作りをする始末である。
 全曲を聞けば、 






 このやうに素晴らしい曲ではあるが、映畫『アマデウス』の中で、

 「ヘンデルは嫌ひだ」

 とモオツアルトに言はしめてモオツアルトの優位性を示さうとしてゐるが、實際の彼はヘンデルの『メサイア』やその他の大曲を編曲してゐて、モオツアルトの最後の『死者の爲の彌撤(みさ)曲』の冒頭の曲は、ヘンデルからの借用であるのは有名な話であり、ヘンデルの影響を彼でさへ受けてゐるのである。

 それがヘンデルの、

 『May at last my weary age

 場合だと、 







 こんなに美しい前奏だから、この旋律が歌はれるのだらうと、手藥煉(てぐすね)を引いて息をひそめてゐると、 





 このやうに歌手は違ふ旋律を與(あた)へられて歌はしてもらへなくて、もどかしい思ひをしなければならないのである。
 全曲を聞いて見よう。 





 このやうにヘンデルの曲では、歌手はお預けを喰つたやうな状態で歌ひ、鑑賞者はそれを聞きながら一種の驚きを禁じ得ないのだが、それを理解する者にとつては、それは決して不快ではなく、むしろ快感でさへある。
 このやうにバロツク期の特徴でもある『多聲音樂(ポリフオニイ・Polyphony)』の二聲 以上の異なつた旋律がからみ合ふといふ特性を活用しながら提示される。
これがヘンデルを好きにならざるを得ない理由の一つなのである。


     二〇一〇年師走一五日午前三時


)彼には外にもこのやうな曲が幾つもあるが、主なものを掲げれば、

韓徳爾(ヘンデル・1685-1759)主が家を建てたなら

韓徳爾(ヘンデル・1685-1759)主を褒めよ

などがあるので、一聽して戴ければと思ふ。
猶、これ以外に日本のピアニストの小原孝といふ人がゐるが、この人のアルバムに、蕭邦(シヨパン・1810-1849)の『洋琴(ピアノ)協奏曲』と『北の宿から』と『津軽海峡冬景色』をポリホニイとしたり、他にも色々愉しんで發表してゐるのを聞くのも一興だらう。


§

 『In den sngenehmen buschen

(九つのドイツアリアより)
HWV 209
上月城址










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